天璋院篤姫を作った人
昨年のNHK大河ドラマは「篤姫」でした。視聴率も高く評判の良い歴史ドラマでした。この「篤姫」を当時の江戸幕府に送り込んだのは薩摩藩主「島津斉彬」でした。「島津斉彬」はどうして彼女を江戸幕府に送り込んだのでしょうか。
「斉彬」は若いころから西洋文化に強い関心を持っていました。しかし当時の日本は鎖国中であり、西洋文明に対する強い抵抗が存在していました。また長く続いた危機的財政からようやく回復したばかりの薩摩藩において、「斉彬」の西洋文明重視の傾向は、一部からは単なる浪費ととらえられていました。しかし「斉彬」は、藩主の座につくと西洋の優れた技術を積極的に取り入れ、富国強兵と殖産興業政策を急速に推し進めました。現在の鹿児島市郊外に、大砲を造るための反射炉をはじめ、溶融炉や硝子窯など多くの設備を備えた一大工場群を築いたのもその一つです。この工場群はのちに「集成館」と命名され、集成館で行われたさまざまな事業は「集成館事業」と総称されることとなりました。このように「斉彬」は積極的に西洋文明を取り入れることに努めました。しかし「斉彬」は単なる「西洋かぶれ」からこれらを断行したのではありません。当時の日本を取り巻く情勢においては、1840年に勃発したアヘン戦争を契機として、イギリスやフランス、ロシアなど欧米列強による中国、東南アジア、極東の植民地化が進んでおり、蝦夷地や琉球にはこれらの国々の軍艦が、水や薪炭を求めてしばしば来航していました。こうした情勢を詳しく知っていた「斉彬」は、日本が他のアジアの諸国と同様、欧米列強の植民地となることに強い危機感を抱いていました。そのため「斉彬」は、西洋文明を取り入れることによって富国強兵と殖産興業の政策を進め、国家として自立することこそが、日本を欧米列強の侵略の手から守る上で不可決だと確信していたのです。
その為に遠望深慮の結果、篤姫を江戸城に送ることも幕府に気づかせる一つの方法と確信し実行したのです。「斉彬」が藩主に就任して2年後の1853年、米国ペリー艦隊が黒舟を率いて浦賀港に入港し幕府に開国を迫り、天下は騒然となりました。対応に苦慮した幕府は、諸藩の大名や有識者などから意見を募りました。「斉彬」は、これらのいずれもがその場しのぎで、偏りが激しく、不見識な意見であることに大いに失望し次のようにのべました。「要路に立つ人、非常の人物を登用し、非常の措置をなすべきの時なり。」国の存亡がかかった非常時に際しては、従来の考え方では対応出来ません。「斉彬」は自身が勇断を下す必要性を強く感じて1854年下級武士であった「西郷隆盛」を抜擢し、江戸に向かわせその後の明治維新に繋がっていったのです。「斉彬」の大局感から「篤姫」を生み、そして明治、大正、昭和、平成と歴史が繋がっていくのです。 大変な時だからこそ、こうした大局感が必要なのです。
今年は昨年以上に大変な年になるだろうと言われています。 皆で必死になってこの困難な年を乗り越え良い年にしましょう。