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やってみなはれ

表題はKONOIKEがお世話になっている、遠州信用金庫の経営者セミナーにて「経営のヒントとなる言葉」の中から引用したものです。サントリー株式会社創業者の鳥井信次郎氏の著書「やってみなはれ みとくんなはれ」(新潮社)の中で述べている言葉です。先日資料を頂きましたので皆さんにも読んで頂きたくここに紹介します。
 【 鳥井信次郎氏は、1879年、大阪府に生まれました。1892年に大阪商業学校を卒業後、大阪市内の薬種問屋に丁稚奉公に出ました。鳥井氏は、薬種問屋でぶどう酒(ワイン)など洋酒の製造方法、販売技術、鑑定方法などを学んだ後、1899年にぶどう酒の製造会社である鳥井商店を設立しました。1921年、鳥井商店は株式会社寿屋へ社名変更を行ない、国産ウイスキー、国産ビールの製造を始めます。1962年鳥井氏は亡くなりましたが、翌年の1963年株式会社寿屋はサントリー株式会社へと社名変更を行ない現在に至っています。
冒頭の言葉は、「開拓精神こそ、商売の基本である」ということを表しています。当初、鳥井氏は、海外から輸入したぶどう酒を瓶詰めして販売していましたが、売れ行きは芳しいものではありませんでした。これは、海外のぶどう酒が、当時の日本人の味覚になじんでいなかったためです。そこで、鳥井氏は甘味剤や香料の調合の研究を重ね、1907年、日本人の舌に合わせたぶどう酒である(赤玉ポートワイン)を発売しました。(赤玉ポートワイン)は、味のよさもさることながら、新聞やポスターを活用した画期的な広告戦略によって大きな人気を博し、サントリーの主力商品となりました。
その後、鳥井氏は、(赤玉ポートワイン)の成功で得た資金を基に、日本人の繊細な味覚に合うウイスキーを造ることを決心します。鳥井氏はかねてより「ウイスキーは洋酒の王者であり、洋酒業界に志を立てた以上、ウイスキーをやってみるべき」との信念を持っていました。ところが、鳥井氏がウイスキーの製造を発表すると、社内外から大きな反対が巻き起こりました。かってスコットランド以外の土地でウイスキー製造が成功した事例はなく、十中八九、失敗すると予想されたためです。また当時の日本ではウイスキーが一般に根付いておらず、いくら優れた商品を作ることが出来ても、売れるかどうかについては大きな不安がありました。しかし鳥井氏は、「やってみなはれ やらな分りまへんで」という自身の哲学に基づいて反対を押し切り、当時の日本では不可能と言われていた本格的な国産ウイスキー作りに向けて、挑戦を始めました。
事実、ウイスキー製造は困難を極め、(赤玉ポートワイン)で得られた利益は、ウイスキー製造事業に吸い取られていく一方でした。しかし、それでも鳥井氏はウイスキー製造をあきらめませんでした。そして、数多くの試行錯誤の末、1929年に日本初の本格ウイスキーである(サントリー白札)が誕生したのです。その後もサントリーは高品質のウイスキー製造に対する挑戦を続け、先進的な広告戦略を展開し、現在では世界的な洋酒メーカーとして広く知られるに至っています。
現役時代、鳥井氏は、社員に自身のことを「社長」ではなく「大将」と呼ばせました。そこには「自身は安閑としている大会社の『社長』ではなく、あくまでも開拓精神を忘れない『商人』である」という強い誇りが表れているように思えます。 】
KONOIKEにとっても大きく取り上げて行きたい哲学だと思います。

『素晴らしい未だ見ぬKONOIKEに会う為に今頑張ります。』